昭和45年02月27日 夜の御理解



 相済まんのですけれども、にもかかわらず、その心、神様の心には反対の背いてばっかり、いわゆる背信、心に背くと云う事、いわゆる背信、ね、背信の毎日を過ごしておると云う事が、唯ただ相済まない、勿体ないと云う事になるのかね。ですから、あの合楽でほど、その神様の働き、御霊様の働きと言った様なものを、如実にね、この見たり聞いたりでけておる、いわばそれはもう言う事がないほどである。ね、
 その言う事が無い程に頂いて居るのにも拘らず、なら私共の日々と言うのは、背信の毎日である。ただお詫びより外にない。今日はどう云う事だろうか、御理解第二節にね、あの、みてると云う事がないと云う、そのそこん所をですね、して一番最後の云う事がないて云う所、いう事がみてると云う事が云う事がない、云う事がないともう言う事がない。もう本当に言う事がないです。
 合楽で信心の稽古をですね、させて頂いておる人たちは、もう言う事がないです。 云う事がない程におかげを頂いて居るです。もうそりゃね、私は日々もうただ恐れ入ってしまうんですけれど、ならその恐れ入った生活がでけて居るかと言うとでけていないのです。いわゆるそれは、背信の毎日であると云う事。そのそう云う間違いのないものを見たり聞いたりさせて頂きながら。
 実はならその心に背いてばっかりの生活、それこそ言う事はない程しにおかげを頂いて居りながら、この様な御粗末御無礼、ですからこの背信の生活と云った様なものは、本当に神様を見たり聞いたり、間違いなさを分らしてもろうたり、しておる者に言えれる事じゃないかと思うですね。ですからはぁ信心しよると云うても神様がどの様なもの、御霊様がこうだと云った様な事を全然見たり聞いたりしてない人たちはですね。
 だから本当は、どう云う御粗末御無礼な毎日を過ごして居っても、背信行為には成らないのですよ。私どもの様にもう日々がね、日々が神様の働きに恐れ入るなぁと、ね。今日あの御理解研究会の方で発行される此処の毎月こんだ、御理解集が出るんですが、その二月一日の日の、が、ま言うなら活字になって見事な本になって出て来ておる、でけております。もうそれ私一読させて頂きながらどげん考えたって、私が話したと思われんのですよ。ん、私は繰り返し繰り返し読ませて頂いて、有難いなと思うんです。
 こりゃなら、皆さんもそれを感じられる、毎朝、朝の御祈念に参って見えて居られる方たちが、とてもあれは親先生の頭の中から出とるとじゃない、ち。と云う事をま、実感なさる事であろうと、ま、それが合楽のいわば、魅力でもある訳ですが、そう云う所からです、神様の働きを感じん訳にはいかん、御理解を通して、分る分らんは別として、感じん訳にはいけんのだと。
 その様に神様を分らして頂いて居るにもかかわらず、なら、分らして頂いとる者が、その、家族の心に背いておると、また自分の心、こうしなきゃいけんと思いながら自分の心に背いておる、それが背信なんだ。心に背いておる毎日なのだ。言う事はない程に頂いておりながら、背信、そこにです、御粗末御無礼がでけて来るんだと。だから此処ん所を、本気でお詫びの信心がでけなければ、こりゃ合楽でおかげを頂いておるからこそ、そこの所が分るんだとこう思います。
 この頃か、公子さんがちょっと心の調子を狂わせておる。まぁ帰らして頂いとったんです。今日此処へ出て来てから、神様に一生懸命御祈念さして頂いとったら、対立を止めよだったかね、対立をせん対立せんと云う事を二言続けて繰り返し頂いたちゅうんですよ。もうね対立するものがあるから、問題が起こって来るんだ。なんにも相手はないんだ。いわゆる問題はない事ことに成って来ると。
 心は何時も、言うなら調子を狂わせる事はないのだけれども、そこに対立する問題があったら、対立する人があったりする所に問題があるんだと。対立はない対立はないと、こう二言頂いたとこう。今此処でお届けしますのに、弘道君が頂いとるのが、御結界朝の御祈念の時に、自分が御結界奉仕をしておる、此処に大きな松の木と思われる、それも生きた様な松の木が、柱の様に立っておるち。
 その雰囲気がもう何とも言えん、その穏やかな豊な雰囲気の中に、自分がお取次ぎさして頂いておるね。まさしく云うなら、松の木と云うなら、桂松平先生の事であろうと。私どもが、とても私の取次によって、人が助かる等とは、もう夢思われない。そう云う例えば、金光大神のお取次の徳の働きが、桂先生または、私どもの先覚先輩の先生方のお徳と云うのが、この御結界に生き生きと現れておる。
 その生き生きと現れて居る事が、自分の信心であるかの様な、取次ぎをさして頂く者は、そう云う思い方をしてはならん、どの様におかげを頂いても、あなたのおかげであり、反対におかげを頂かなかった時には、私の信心のいわばお取次の働きの邪魔をして居るのは私だと云う様な、思い方にならなきゃならんぞと、まあこれは取次者に対して下ださっておる訳です。もう言うことないです。
 今日もね末永先生所のおばあさんの、今日は立ち日であった。ま別に式年祭と云う訳ではないけれども、お立ち日だと云うのでもう前々から、心を使うてま少しばかりのお小遣いを貯めてはその、いろんなものをお供え物を買って、そして福岡におる妹さんを云うて、二人で、まあの四時の御祈念に合わせて、御霊にご挨拶をしてくれと云う事のお願いがあっとりました。
 そこで今日はそのせめてあのお饅頭でもお供えしたい折角お供えするなら、久留米のあの、何時もこっから頼み付けの松石の饅頭がいいと云うので、買いに行ったんですよね。ところがあの饅頭は、注文しとかなければ出来ないのです。こしの高い白のあの饅頭ですよね、いつも霊祭の時に何時もする、教会から頼まれてあったんだそうです、だから今そのでけたばっかりの所だった。
 だからならもう一辺作りるけん是を、なら先にあげましょう、ちゅうてあちらの大祭のお饅頭を頂いて帰ったのは良かったけれど、払うてしもうた所がバス賃がないち、帰りの、ね、さあどうしょうか、四時の御祈念には間に合わにゃならんがと思うて、それでもやっぱりバスの停留所までこらして頂いたら、どなたでしたかね、田中さんがバスの停留所にちゃんと、あすこ居んなさるち、はぁもう本当に恐れ入ってしまうち言うてね、御霊の働きもさる事ながら神様がね。
 あの云うならばあのその孫たちがそうして心尽くしておるそれに、神様が感応ましましとる姿だと。そのお祭りを今日は奉仕させて頂いとりましたら神様の方でですね、もうあの、なんて云うですかね、あのプラチナプラチナの台に、ね、ヒスイのねヒスイの若いヒスイです。ヒスイは青いですけどね、それがだから燃える様な若緑の色なんですけどね、薄い若いヒスイの球の入った指輪をこう頂く所を頂くんですよ。
 ヒスイといや、もう今はダイヤよりも値打ちがあると言われている位ですが、云うなら宝物の内だと云う訳ですよね。まだそれは若いヒスイではあるけれどもです、ね、ほんとに信心させて頂く者の宝と云うのは、真の心なんだ。真心なんだ。でそれを例えば、その婆のために、二人の孫たちが、こちらに居合わせて居るものが、ま、おそらく壱岐の教会では、なら今日はお立ち日であるから。
 さあ好きなお饅頭も作られたであろう、好きな御酒もお供えなさったであろう、そしてなら親先生が、ま、御挨拶をなさったであろうけれども、こちらはこちらで、二人の孫たちがそれをしておると言う所にです、神様の感応ましましておられるというか、神様のお喜びがヒスイのいわば宝をね。真心とは信心させて頂く者の宝ぞと云うものを頂いた事、喜ばれたんじゃろうとこう思うんです。霊神様の前に参りました。
 それから、御祈念さして頂いておりましたら、あの私が頂く事がね、そのはぁこの方が、あすこのお婆さんだろうと思われる方がですね、おかげで角が落ちました、て言われるとですよ。私はびっくりしました。おかげで角が落ちました、言われる。角ちゃこう鬼に角、この角なんですよ。腹を立てたりいらいらした時には、はぁもうあんたどんが、言うこと聞かんとお母さんの角が出ようと云う角なんですよ。と云うそれなんです。
 特に女の人たちが、ヒステリックな時なんかもう愈々角がでとる時なんですよ。ね、ほいで私は、此処でお祭り済んでね、その今日はね、あなた達のお祭りが、その御霊様がね、おかげで角が落ちた、成る程、壱岐の方であんなさっても居られるけれども、この人たちのような生き生きした真ではなかったろうとこう思うですね。別になら、裕福な小遣いが充分にある訳でもない中から、それこそバス賃のたらんぐらいにお供え物を買うて、帰らせて頂くという、そういう一途の思いがですね、
 そういうおかげになって来て、まあ、いうならば、教会でもま、おの子供たちなら、子供たちがですよね、ほんとに痒かとこに手が届かん所に、いらいらもやもやした、御霊様模様を見る様な感じがしたんです。それを孫たちの真心から尽くされる、その御霊様のお祭りがですね、おかげで角が落ちた、ちゆうて喜んでおられる。そしたらですもん、あの末永さんが言う事が。
 実は先生今日のお祭りに、私もそれをしきりに思うたちゅうもん。自分な知らんのです。けどもうちのお婆ちゃんちゅう人は、そうに腹立ち屋さんだったそうです。もうちょいとそこでプリプリ腹かきなさる婆ちゃんだっだげなたい、それを聞かせて頂いて本当にやっぱ、いらいらもうやもや、やっぱ角が出とったじゃろうちこう言う。それをおかげで角が落ちたとこう言うとる。ね。
 真の真のね、真心がそう云う事になってくる。真心ちゃ私は有難いと、何台もこう繋がって、お饅頭やら、あの蒲鉾やらこうしてあった。そん中にその私があの、あのミカンのあのジュースだけしか頂きませんもん。サイダーを頂きませんから、だからそれをその、お供えしてある所が、それだけが三宝が向こう向いとるですもん。したらあの神様からですね、あれはもう末永が、もう御霊様じゃなくてお下がりを頂いたら、親先生に頂いて頂こうと、親先生にお礼の印じゃから、向こう向けとるとです。
 実際に久富先生がなさった後から気が付かれたらしいんですよね。穴が向こう向いとった。お三宝が私の方を向いとるわけですいわば、ね、けれどもさあお祭りを仕えて頂いたお礼の印に親先生だけしか上がんなさらんジュースをお供えして、御霊さんよりも、親先生にお供えしたから、いわゆる親先生に対するお礼だと言うて、本当に神様の演出に驚いてしまします。
 それをねお祭りが済んで、聞かせて頂いてですたい、ね、本当にあのね、真心ちゃ有り難いね。御霊さんのお祭りは、手厚うさして貰わにゃいけんねと云うて、今からあの甘いのもでも下げて、お茶でも私が入れようと云うて、炬燵の間で御直会の甘いもの、お茶を頂きよりましたら、熊谷さんところの恵美子さんが親子連れで出て参りましてね、そしてあの一日に、小枝子さんの五十日祭と、それからお母さんの三年祭を一緒にしてくれと云う事だったんです。
 で私はそん時に聞いたんです、そん時に聞いてそげんでいいよと言うとったもんですから、ね、あの所が後から考えてみてですね、反対に成っとるです小枝子さんの方が、大体あのだから五十日祭であるのに、四十何日かでせんならんごっつ成っとる。ま仏教でなら生仏さんですからね、その是を一緒にする訳にはいかんのですよ。どうしてもまぁだ五十日祭という、いわゆる新御霊さんとしての資格しかないのに、そこに御霊様する事いらんから、しかしもし言うたけれども、もう熊谷さんにお話しした。
 そしたらあの熊谷さんが、もう親戚に通知を出しとりますから、ち言う事だったち。ふんならもう神様にお詫びをしてそして、お母さんの御霊の祭りを先に、午前中にでもしてから、さしてもらわじゃこてと言いよりましたんです。そしたら昨日恵美子さんが来てから、あの、むつやの陽子さんから電話がかかって来てから、親先生が別々にせぬにゃいかんちいいよんなさるよちゅうて、電話がかかって来たて。
 そりけん実はその積りで実は参りました。いやそれはあたんどんも大変だから、もう私は一緒にするごたるふうにしとるよ、と云うた所が、先生実はと云うて話すのにですね。その一日に一緒にして頂くと妹んとこの婿も、なんか用事で出て来られないち、私の方は組合の組合長をしとるから、その日は絶対出て来られないち則夫さんが、それでもう親先生がそう云うて頂くなら、もう願っても願ったり叶ったりだから。
 あの小枝子さんの五十日祭は、合楽であの六日の日にしてくれて主人が申しますからち、まあ本当に、恐れいってね、いかに小枝子さんがそれを一緒にする事を嫌ったかと言う事が分りましょうが。そりゃいくら親子だって、まぁだ自分なそのなんて云うですかね、このまだ生々しい御霊さんなんですよ。そこであの三十日、あのお母さんの三年祭は、むつやで、あの、ませめて夫人総代さんだけでも来て頂いて。
 内々兄弟だけで、親先生に祭主して頂いてから、もう本当に真心込めてさせて頂こうと云う事になった。いまの末永さんのその話を聞いたもんですからね、もう御霊さんのお祭りがそんなに有難いと云う事を知って居るけれども、いまそこで御霊さんのお祭りの仕え終られたあとの御直会を自分も一緒に頂きながらです、そう云う腹が腹て云うか、本当に思いを込めてせんならんなぁとことが分った訳です。
 ほいで恵美子さんも喜ぶ、私の顔も立ったわけですよね。勿論小枝子さんも喜ぶことだろうとこう思うんです。と云う様にもうそれこそ、もうねどんなに疑わしい人でも、疑えん位に一分一厘しかも間違いなく、合楽では神様を見せてもらい、聞かせてもらいしておると云う事。だから言う今日頂く御理解?一番最後に言う事ないと仰る。みてると云う事がないて云う所、言う事がないの最後んとこだけ頂くとですよ。
 開かせて頂いたら、言う事はなかろうが、合楽のもんな、と言うほどしに、信心の稽古をさして頂く者が、その信心のいわゆる神様の働きを、このように間違いなく頂いておる、言う事ない、言う事のない私達が、その神様のお心に背く毎日を繰り返しておると云う事は、是はだから、分らん者は、よかちゅう事、仕方がないちゅう事。けども合楽の、分っておって、背信の毎日を過ごすと云う事は、相済まん事じゃないか。
 本当にそこに近づかして頂くこと同時にです、そこん所が真剣なお詫びをさしてもらわなきゃならんと言う事を頂いた。本当に言う事ない、ほどしの生き届いたですね、御教導を受けておるのですから、私ども本気でそこん所へですね、いわば一日を振り返って見て、はあ、今日はおかげを頂いたと言える様な日々が続く様なおかげ頂きゃならんのに、今日もまた、自分の心に背いた一日であった。
 相済まん事であったと云う事の繰り返しでは、本当に相済まんと言う気が致しますですね。もう是は日々その様にですね、間違いのない神様の働きを見せて頂き、実は聞かせて頂いて信心の稽古をさせて頂いておる私たち、それこそ言う事のないほどしのおかげを頂いておる私たち、だからそこんところのおかげを頂いてこそ、初めてまた言う事のない様なおかげがね、伴うて来るようなおかげがあると云う事を感じますですね。
   どうぞ。